夏の影が消えないの。
2009/09/16 (Wed)
ひいばあちゃんが亡くなりました。
と、いうことで昨日、急遽ニセコからの帰還です。
私自身(というか、身内全員)そう長くはないと思っていたし、宿泊研修スタートした時から「途中で帰るんじゃないかな」と少し思っていて、連絡がきたとき吃驚もしたし、涙もでたけど、絶望的な気持ちじゃなくて、「ああ、やっぱりきたか。」と、パーっと曇ってたのが晴れるような感じがしたんです。身内が死んでしまったのに、不謹慎だと思いつつも。
ひいばあちゃんは96歳でした。介護やら世話やらをやくのはその娘……私のばあちゃんでした。ひいばあちゃんは90歳代だというのにものすごく元気が有り余っていて、自分の気に入らないことがあったりすると、世話をしているばあちゃんを引っ掻いたり叩いたりするくらい元気でした(笑)いつも、
「昔にくらべて本当に意地が悪くなったわ」
とばあちゃんは言っていました。
それが、亡くなる少し前、ばあちゃんがいつものようにひいばあちゃんのいる病院(実は数日前転んでから体の調子が悪いので入院していた)に行くと、いつもとは違う、とってもかわいい顔をしてにこっと笑うもんだから、ばあちゃんは「すごく機嫌いいなあ」と思ったらしいです。
…その数時間後亡くなったのですが。
その話を宿泊研修先のホテルの部屋で聞いたとき、「ああ、わかってたんだな。」と思いました。自分がもう長くないってことがわかってた。自分の体だから、わかるんだ。そう思いました。母さんも同じことを思っていたし、伯母さんだって。
上記の話を思い出すたびに涙目になるんですけど、ね。
そこで次の日…つまり昨日。急いでニセコからJR乗って帰ってきて、そのままばあちゃんの家に。畳の部屋にひいばあちゃんが寝ていて、これが死体だとは信じられなかったし、なんだか妙に変な感じがして、涙はあふれるし、なんか頭の中ぐっちゃぐちゃだし、昨日平気だって思ってたのに、目の前にすると、わかんなくなった。そうだ!タッチのシーン!あれだ!
「…死んでるんだぜ?」だよ!ギャグとかでよく見るけど、まさしくそれ。だって目の前にいるひいばあちゃんは今にも動き出しそうなんだもん。「何さ」って。
でも触ると"生きてる"人じゃなくて、"死んでる"人の肌で、かたくて、冷たくて、一気に現実に引き返される感じがして、いままで嘘だよ、とか、実感わかない、とか思ってたのが本当に一瞬で吹っ飛ばされて、ああ、死んでる。って。そう思ってしまった。
今まで、こういったことで自分が当事者(ひ孫ってことで)になったことがなかったので、もちろん亡くなった人に触ったことがなかったわけだから、ショックというか、ショックだったし、逆に、こういう、「冷たいんだな」とか、「かたいんだな」とか、そういうことを知れてよかったな、と思う私がいる。不謹慎かもしれないけど。
忘れないと思うし、忘れられないと思うし、忘れちゃいけないとおもう。月並みなことばで申し訳ないですが。
式も何事もなく終了し、今日。
焼き場、ですね。
ひいばあちゃんが炉に入ってくとき、また泣きましたけど、その様子をみていたいとこ(小5)が「こわい」的なことを言っていて、それを聞いていた、母親…伯母さんが、「もうばあちゃんの魂は、心はここにはないんだから、別になってるんだから、苦しくないんだよ。」と言っていたのが妙に耳に残っています。
体は器にすぎないということです。簡単に言ってしまうと。
私も「まだ死にたくない」と炉に入っていくひいばあちゃんを見ながら思ってしまったし、痛そうとか、そう思ってたけど。
そっか、器なんだね。そうだよね。壊れちゃったんだよね。われちゃったんだ。だから新しいきれいな器をまた買いに行かなくちゃいけない。それに変わる、丈夫な、きれいな、新しい自分の器。ひいばあちゃんはそれを探すために一度ここを離れるだけ。またどこかで生まれてくるのだから。
(こういうのって輪廻転生っていうのかしら)
自分の中で、自分なりに整理して、落ち着いたから、骨を拾う時も泣かないでいられたし、穏やかな気持ちでいられたんです。
正直、すごく疲れた。(親戚の問題とか、頭が痛くなるような混沌としているものなのです、私の身内は。)でもいい経験、といえば語弊があるかもしれないけれど、"人の死"というものを通して見えたものとか、私が自分で考えたこととか、それが大切かなぁ、と思った。ひいばあちゃんが残してくれたものは私にとってものすごく大きいものでした。
……なんか途中すごく宗教くさいこと言っていますが、別に勧誘してるわけではなす!というかなにに勧誘してる?夜月教?嫌だわそんなん!
帰ってきました。宿泊研修。
実は帰ってきてました。昨日。
まあ、読んでもあんまり気持ちのいいものでもないので、追記に隠しておきます。
ただの自己満足として、私が思ったことをつらつら書いていこうか。
実は帰ってきてました。昨日。
まあ、読んでもあんまり気持ちのいいものでもないので、追記に隠しておきます。
ただの自己満足として、私が思ったことをつらつら書いていこうか。
ひいばあちゃんが亡くなりました。
と、いうことで昨日、急遽ニセコからの帰還です。
私自身(というか、身内全員)そう長くはないと思っていたし、宿泊研修スタートした時から「途中で帰るんじゃないかな」と少し思っていて、連絡がきたとき吃驚もしたし、涙もでたけど、絶望的な気持ちじゃなくて、「ああ、やっぱりきたか。」と、パーっと曇ってたのが晴れるような感じがしたんです。身内が死んでしまったのに、不謹慎だと思いつつも。
ひいばあちゃんは96歳でした。介護やら世話やらをやくのはその娘……私のばあちゃんでした。ひいばあちゃんは90歳代だというのにものすごく元気が有り余っていて、自分の気に入らないことがあったりすると、世話をしているばあちゃんを引っ掻いたり叩いたりするくらい元気でした(笑)いつも、
「昔にくらべて本当に意地が悪くなったわ」
とばあちゃんは言っていました。
それが、亡くなる少し前、ばあちゃんがいつものようにひいばあちゃんのいる病院(実は数日前転んでから体の調子が悪いので入院していた)に行くと、いつもとは違う、とってもかわいい顔をしてにこっと笑うもんだから、ばあちゃんは「すごく機嫌いいなあ」と思ったらしいです。
…その数時間後亡くなったのですが。
その話を宿泊研修先のホテルの部屋で聞いたとき、「ああ、わかってたんだな。」と思いました。自分がもう長くないってことがわかってた。自分の体だから、わかるんだ。そう思いました。母さんも同じことを思っていたし、伯母さんだって。
上記の話を思い出すたびに涙目になるんですけど、ね。
そこで次の日…つまり昨日。急いでニセコからJR乗って帰ってきて、そのままばあちゃんの家に。畳の部屋にひいばあちゃんが寝ていて、これが死体だとは信じられなかったし、なんだか妙に変な感じがして、涙はあふれるし、なんか頭の中ぐっちゃぐちゃだし、昨日平気だって思ってたのに、目の前にすると、わかんなくなった。そうだ!タッチのシーン!あれだ!
「…死んでるんだぜ?」だよ!ギャグとかでよく見るけど、まさしくそれ。だって目の前にいるひいばあちゃんは今にも動き出しそうなんだもん。「何さ」って。
でも触ると"生きてる"人じゃなくて、"死んでる"人の肌で、かたくて、冷たくて、一気に現実に引き返される感じがして、いままで嘘だよ、とか、実感わかない、とか思ってたのが本当に一瞬で吹っ飛ばされて、ああ、死んでる。って。そう思ってしまった。
今まで、こういったことで自分が当事者(ひ孫ってことで)になったことがなかったので、もちろん亡くなった人に触ったことがなかったわけだから、ショックというか、ショックだったし、逆に、こういう、「冷たいんだな」とか、「かたいんだな」とか、そういうことを知れてよかったな、と思う私がいる。不謹慎かもしれないけど。
忘れないと思うし、忘れられないと思うし、忘れちゃいけないとおもう。月並みなことばで申し訳ないですが。
式も何事もなく終了し、今日。
焼き場、ですね。
ひいばあちゃんが炉に入ってくとき、また泣きましたけど、その様子をみていたいとこ(小5)が「こわい」的なことを言っていて、それを聞いていた、母親…伯母さんが、「もうばあちゃんの魂は、心はここにはないんだから、別になってるんだから、苦しくないんだよ。」と言っていたのが妙に耳に残っています。
体は器にすぎないということです。簡単に言ってしまうと。
私も「まだ死にたくない」と炉に入っていくひいばあちゃんを見ながら思ってしまったし、痛そうとか、そう思ってたけど。
そっか、器なんだね。そうだよね。壊れちゃったんだよね。われちゃったんだ。だから新しいきれいな器をまた買いに行かなくちゃいけない。それに変わる、丈夫な、きれいな、新しい自分の器。ひいばあちゃんはそれを探すために一度ここを離れるだけ。またどこかで生まれてくるのだから。
(こういうのって輪廻転生っていうのかしら)
自分の中で、自分なりに整理して、落ち着いたから、骨を拾う時も泣かないでいられたし、穏やかな気持ちでいられたんです。
正直、すごく疲れた。(親戚の問題とか、頭が痛くなるような混沌としているものなのです、私の身内は。)でもいい経験、といえば語弊があるかもしれないけれど、"人の死"というものを通して見えたものとか、私が自分で考えたこととか、それが大切かなぁ、と思った。ひいばあちゃんが残してくれたものは私にとってものすごく大きいものでした。
……なんか途中すごく宗教くさいこと言っていますが、別に勧誘してるわけではなす!というかなにに勧誘してる?夜月教?嫌だわそんなん!
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